掲題の言葉は、私の言葉ではありません。
よしながふみ先生のインタビューに掲載されていた言葉の抜粋です。
具体的な表現である限り、必ず誰かを傷つける
——誰かを傷つけるかもしれない葛藤もあったとか。でも、誰も傷つけないように考えてしまいすぎると何も描けなくなりそうです。
よしなが:毎回せめぎ合いです。若い頃に編集者さんに「とにかく目立たない漫画を描きたい」と話したら「それでは面白い作品にはならないので」と諭されたこともあります(笑)。具体的な表現である限り、絶対誰かを傷つける。なので、そこは諦めた……ところはあります。
——きっかけはあったんでしょうか?
よしなが:クラシックの音楽家の方が「クラシックはどんなに感情を込めても、歌詞のない抽象的な表現だから誰かを傷つけない」と言っていて、これを聞いた時に諦めがつきました。具体的な表現はもう絶対に誰かを傷つけるんだと。
twitterをやっていると、他人を傷つけない配慮を過剰に求める声によく出会います。
それらしいもの、流れ弾で今日も見ました。その手のツイートはホント多いし、よくバズる。
もちろん意図的に他者を蔑む言動は慎むべきですが、そうではない言動に対してまで
「結果的に他人が傷つく」=「その原因を作った人が悪」
みたいな風潮がある気がしています。
このブログは閲覧者が少ないので自由気ままに、ドラゴンボールにおける様々な考察を載せています。
私は自分の考えを言語化することが好きだし、他の誰かが描いた考察を読むのも大好きです。
たとえ自分とは異なる考察だったとしても、根拠や背景の読み取り方に深みがあるものであればあるほど、「おお!?なるほど、そういう考え方もあるか・・・」と、すごく感動してしまいます。
でも、みんながみんな、そういうわけではないです。
二次創作において自分の妄想をはっきり述べることは、私にその意図がなくても、結果的に誰かの二次創作を否定することにつながります。
もしかしたら、私の考察を見て、気に食わない思いをされている方、自分の創作が否定されたと感じている人がいるかもしれません。
私の考察内容は傍から見て異端な内容も多いでしょうから、なおさらです。
「二次創作は妄想は自由!」「私は私の考えを述べてるだけなのでお気になさらず」等という文言を枕詞のように毎回書くのも、なんか本末転倒・・それってクレーム防止の予防線で、守っているのは相手じゃなくて自分自身だったりしない?とか思ってしまうわけです。
しかし、よしなが先生の言葉を見て、私もあきらめがつきました。
本当に誰も傷つけないとしたら、それはたぶん、自分が何も表現できていないだけ。
誰の心にも響かないものを描いているだけなのだと思います。
「あきらめがつく」とはどういうことかについて、具体的に綴ります。
もしも仮に、「あなたのブログを見て、私の二次創作が否定されているようで大変不愉快でショックでした。」と言われたとします。
それに対し私は、「そんなことでイチイチ傷つかれても私も困るんだけど」とは言いません。
「不愉快な思いをさせてごめんなさい」とも言いません。
ただ、「あなたは不愉快でショックだったんですね、わかりました」と言うだけです。
つまり、相手の感情を、事実として受け入れるだけ。
具体的な表現は誰かを傷つけるなら、こういうことが起きてもおかしくないよね、あなたはそれで傷ついた人なんだね、と思うだけです。
誰も悪くない。でも、誰も悪くなくても、傷つけたり傷ついたりすることは多分にある。
あきらめるとは、そういうことだと思います。
そしてもしも、「不愉快だったのでこういったことはもう書かないでください」と仮に言われたら、「それは応じられません」と答えます。
その要請は、私の表現の自由を脅かすものであり、要請するのは勝手ですが私には応じる義務はないためです。
もちろん、私の表現のどこかに、特定の個人の社会的評価を下げる内容や公序良俗に反する内容が含まれていて、それを訂正してほしいという要請であれば、お話を伺って最大限応じます。
二次創作だろうがブログだろうが、ツイッターで社会問題への意見を述べる時とか、
とにかく自分が何かしら表現をするかぎり、
「誰も傷つけないでいようとすること、それが実現可能だと思うことすら傲慢なのだ」と思いました。
それよりも、「自分の表現はどこかで誰かを傷つけている。でも、どこかで誰かへの刺激や感動を呼んでいる。」と考えるほうが、適切なんだろうと思います。
この手の話題は、決して正解はないものと思います。もしかしたら私も数日後には意見が変わるかもしれません。
それでも、考え続けることに意味がある。
-「きっと迷いの中に倫理がある」-「チ。」第7集に収録された言葉ですが、本当に含蓄のある言葉だと感じます。