リスペクトとは何か、その先にあるもの

のっけから二次創作全然関係ないけど、一生懸命考察したので記録しておく。

先月、Jリーグ公式noteに下記の記事が掲載された。

スポーツ現場におけるハラスメントとの決別宣言

監督からアスリートへのパワーハラスメントについて厳しく非難する内容だが、
これはスポーツ関係者のみならず、人と関わって生きていくすべての人が受け止めるべき内容だと感じている。

西洋文化における「リスペクト」の概念は、この世に生を受けた全ての者が課された「人として犯してはならない最上位概念」である。

Respectは、日本語で分かり易く表現すると「尊厳を重んじる」という意味であるが、こと日本においては、「リスペクト」は「条件付き」かつ「選択制」であることに驚かされる。

上記のように「リスペクト」の概念に触れた上で、note後半に「他者から見える人の言動は下記3つに分類できる」と述べられていて、指導者が選手を叱るべき対象は①のみであり、②や③では決して無い、と言い切っている。

① attitude(アティチュード:姿勢、態度、取り組み方)
② aptitude(アプティチュード:適性、才能、スキル)
③ being(ビーイング:存在、ありよう)

しかしながら、「リスペクト」の本質的な意味合いを強調した後続には、著名な脳科学者の衝撃的な言葉も引用されている。

脳科学者の中野信子氏は、「相手の過失に強い怒りを感じ、日ごろは使わないような激しい言葉で罵り、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられない。これは『正義中毒』というべき一種の依存症状」であるとし、「『他人の言動が許せない』という感情の暴走が引き起こすのがハラスメント」であるという。

また、「人間は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っている」と話す。そして、「自分は絶対に正しい。あいつは叩かれて当然だと、暴言を吐いたり、ハラスメント行為をするその人の脳には、ある異変が起こり一種の快楽が生まれている」と指摘する。

一種の快楽・・・!!

嗚呼、なんということでしょう・・・!(劇的〇フォーアフター風)←古い

人間はいつだって、楽な方に流れる。
快楽に逆らうには、強靭な理性と意思が必要。

このnoteにも
「的確かつ適切な「正義」の使い方を意識することや、
「意味ある正義」を「必要な時」に行使できるよう日頃から心掛ける必要がある。」
と綴られている。

つまり、そういった心がけをしない限り、この世から不毛な争いはなくならないのかしら。

相手の立場を重んじる、友人のエピソード

大学時代、友人がヨーロッパの留学生活を終えて帰国してきた。
友人の手土産話で今も私の脳裏に印象に残っているのが
アフリカからの留学生とのディスカッションに関するエピソードだ。

授業で国際社会の在りようをグループで話し合う中で、アフリカからの留学生の意見は発展途上国の立場にかなり偏っていて、何かあるたびに

「アフリカはこんなに貧しい、たくさんの子供が死に、飢えで苦しんでいる。
だから先進国はもっと途上国を支援すべきだ!
二酸化炭素の排出量規制だって、これまで先進国が散々地球を汚してきて富を得たくせに、
それを途上国に強制するのもおかしいだろう!」

と強く主張するらしい。

自分が何か言おうにも事あるごとに言い返され、議論が進まない。そんなことが度々あった様子。

「その気持ちもわかるけどさ、国の自助努力あっての経済発展が前提であって、支援支援って受ける側が言うもの違う気がするんだよなぁ・・・」

私は話を聞いててそう感じたし、おそらく友人もそのような気持ちがあったと思う。

そのうえで、友人はこうも言っていた。

「でもさ、授業が終わると、さっきまでのディスカッションバトルが無かったことみたいに、
すごくフレンドリーに話しかけてくるんだよ。
意見がぶつかることは相手の人間性を否定しているわけじゃないって、
ちゃんと区別できてるんだよね」


「アフリカからヨーロッパに留学するのは、日本から留学するのとワケが違うと思うんだよね。
きっと、とても優秀でものすごくお金持ちじゃないと来られない。
自分はエリートとして国を背負って来ている、
だから母国のために貢献しなければいけないって気持ちがすごく強いんだよ」

国の代表という責務を背負う姿は、少し前の日本にも存在した考え方のはずだ。
森鴎外の代表作『舞姫』にも、それに近い描写があるからだ。

官僚としてドイツに留学した豊太郎は、留学先で出会ったエリスと交際しはじめたら、
「あいつは女にうつつを抜かしている」
と同僚に告げ口されて、公務員をクビになってしまう。
その後すぐに豊太郎のもとに実母の訃報が届く。

死の原因は作中明記されていないが、
「母は怒りから、情けない息子を改心させるために自殺したのではないか」
と言われている。(この解釈は諸説ある様子だが、私は高校の現代文で、上記の解釈を習った)

女遊びをしてる息子を改心させるために、母が命を投げ打つ・・・令和の世では信じ難い話だが、それだけ当時の日本では、官僚のステータスは遥か高く希少価値で、国益のために働くことが最重要視されていたということだ。
なお、『舞姫』が発表されたのは1890年、まさに100年前の日本だ。

友人の話を聞く中で、
授業とは言え、ガンガン議論でぶつかってこられたのに、
このように受け止めることができる彼の懐深さが、私はわかるようでわからなかった。
私たちは当時20~21歳だが、私は友人ほど、成熟していなかったのだと思う。

社会人になって働き始める中で、立場・主義主張の異なる同僚やお客様と揉めることがあった。
また、時代が進み「リスペクト」という言葉が日本社会にも浸透してくる中で、

「ああ、あの時友人が言っていたエピソードは、
相手をリスペクトする姿勢そのものだったのだな」

と、折に触れて思い出すようになった。

友人は、アフリカの留学生がフレンドリーに誘ってきてくれることに驚いていたけど、
それはきっと、相手にも、友人が相手の立場主張を認めて理解に努めようとしている姿勢が伝わったからこそ、だと思っている。

「相手の立場になってモノを考える」のその先は?

相手をリスペクトし、相手の立場になってモノを考えることができたとして・・・

それでおしまいにできることもあるだろうが、
仕事など何らかの成果を出さなければいけない場面ではそうはいかない。
意見が平行線のままでは、結局何も進まないからだ。

リスペクトのその先にあるもの・・・
これは私もまだ考えがまとまってないのたが、究極、

「相手と自分の双方に、落としどころを見つける意思があるか?」

だと、最近は思うようになった。

同じ目的に向かって進んでいる仲間ならまだしも、
立場によって求める結果が異なったり利益を奪い合わなければいけないケースでは、
互いの主張を戦わせるだけでは永久にその線は交わらない。

結局、ケンカして終わる。

主義主張が異なるという事実よりも、
互いに寄り添う意思がそもそもあるのか、
言い争う前に、その意思確認・見極めを最優先にすべきなのかもしれない。

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