こんな堅苦しくてベジブルと関係ないブログを見に来る方はごく少数だと思うので、
ツイッターでは書かなった、ワンドロの裏の想いについて綴ってみたい。
昨日、「穏やかで幸せな日常」というお題で勝手にベジブルワンドロを行った。
3.11の日付と近かったこと、また、昨今の世界情勢から、
「自分が何気なく過ごしている穏やかな日々を当たり前と思わず、あらためて感謝する機会があってもよいのでは」
と思って描いたものである。
実は当初のテーマ案には「平和」や「祈り」もあった。
しかし、それは私の意図とは別の方向に流れる、または周囲から誤解されやすいと思ったため却下した。
そのことについて詳細に書いてみたい。
「安全圏から高みの見物しやがって」を否定できるか?
コロナ禍で医療機関が超高負荷となり、世の中に「医療従事者」という言葉が浸透しだしたころ、
とある有名な少女漫画家がエールイラストを描いてツイッターに投稿した。
それを歓迎し喜ぶ声もあったが、ひどく嫌悪感を示す医療従事者も結構な数がいて炎上、
このツイートはほどなくして漫画家自らが削除をしている。
リンク先のまとめサイトにあるように、
「安全圏から絵だけ描いて感動ポルノして虫唾が走る」
「ヒーローとか感謝とかどうでもいい。私たちが求めているのは、適切な手当てや賃金だ」
などという非難の声が相次いだ。
漫画家さんはきっと、良かれと思ってこの企画を立てたに違いない。悪意なんてなかっただろう。
だが、それは当の医療従事者にとっては不愉快であり、そう捉えてしまう気持ちも、結構わかる。
一部の漫画好き以外の方からすれば、よくわからん作家のイラストなんてもらったって全然嬉しくない。腹も膨れない。
同情するなら金をくれ、休みくれ、感染広げないように家から一歩も外に出るな、が本音なんじゃないだろうか。
その結果、
「イイコトしてる感な自分に酔ってるだけだろう、そのダシに私たちを使うんじゃねぇよ」
という怒りの気持ちが、感動ポルノというディスりに凝縮されているのだと思う。
「自分は何ができるか」より「相手は何をしてほしいか」のほうが大事に決まってる
ワンドロについても、ヘタ打つとこれと同じことをやらかしてしまうのではないかと思った。
戦争反対、平和な世の中を愛する、フクシマの復興・・・
そういった、被災地や戦地の方にあてて描くようなお題にしてしまうと、
「悲惨な状況を推し活のネタに使いやがって」
と受け取られる事態になりかねない。
第一、素人が平和を願うイラストを描いたって、それが誰かの心に響いて戦争が止むなんて天文学的確率である。
つまり,イラストを描いて得するのは、推しカプをルンルン気分で描くのが楽しい自分だけだ。
本気で被災地や戦地が良くなるようにと願うなら、ワンドロに費やす時間×時給の金額でも寄付した方が、よっぽど世の中のためになる。
世の中、「相手を思う気持ちが一番大切」という人もいるだろう。
それでも社会人であれば、気持ち以外になんらか形に残るもので思いを示すべきだと私は思うが、
お祝いや慶事は「気持ちが大切」でも、まぁいいと思う。
しかし、不幸や災難に関しては、お気持ちなんて何の役にも立たないことは、大人として自覚しておくべきだと思う。
応援なんていらないから何か手伝えよ、
出来ることがないならせめて金くらい出せよ、
先立つものがないとコッチはどうしようもないんだよ
そんなことを面と向かって言われることはあまりない気はするけど、現実はこういうものだと、私は思っている。
自分ができることは何か?という視点で考えると、絵描きは応援イラストを思いつくのかもしれない。
でも、相手の懐具合に余裕があればいいけど、そうでない有事の事態では、
「相手が真に求めるものは何か?」にフォーカスしなければいけないと思う。
(口だけだと思われるとイヤなので補足するが、2月末に少額を、ウクライナに寄付させていただいた。日本にいる私が唯一できるのは、お金を出すことくらいだからだ)
そんなわけで、今回のお題は、あくまで自分自身を主体にしている。
誰かのためにという慈善的な意図は一切ない。
世の中で悲しい出来事が起こる中、平和な毎日が送れることへの感謝とありがたみを考えること。
フォーカスを自分に当てると、イラストにも自分なりの価値が生まれる。
私にとって幸せな日常って何かな、
子供たちとおいしいごはんを食べたり、
絵本を読んだり、
蹴飛ばし合いながら狭い布団で寝たり・・・
どれもこれも、日常の中の、かけがえのない時間だ。
そんなことを考えながら、今回は、家族でお風呂の一枚を選んだ。
推しを描く楽しみに加えて、日々の幸せに改めて感謝をする時間を過ごすことができた。
それは私にとって間違いなく、価値ある時間だった。